プロローグ:緑の匂いと、沁みる傷口
目を閉じると、今でもあの緑の匂いが鼻腔をくすぐる。
福岡県八女市、星野村。僕の原点は、どこまで行ってもあの場所にあります。
見渡す限りの茶畑。幾重にも重なる美しい棚田。夜になれば、空から降ってきそうなほどの圧倒的な星々。
夏になれば毎日のように川へ飛び込み、手足はいつも生傷だらけでした。
幼い頃の僕は、不思議なこだわりを持っていました。
「ばんそうこうは貼らない」
擦りむいた膝小僧をお風呂の湯船に沈めると、じゅわっと傷口が沁みる。痛い。
けれど、僕はその痛みを指で押さえながら、じっと耐えるのが好きでした。傷を隠さず、痛みごと受け入れる。それは今の僕の生き方にも、少し通じているのかもしれません。
将来の夢なんて、何ひとつありませんでした。
学校で書かされる「将来の夢」の欄には、適当に「消防士」と埋めるだけ。
ただの、星野村の泥んこ少年。
それが、今の東大生・山口裕祐の、紛れもない正体です。
第1章:のんびり屋の「戦略的」中学受験
そんな僕の人生が少しだけ動き出したのは、小学4年生の頃でした。
親の勧めで久留米市の日能研に通い始めました。でも、片道1時間の送り迎えは両親にとって負担が大きく、僕自身もそこまで熱中できず、小5の夏にあっさりと辞めてしまいます。
その後、通信教育のZ会に手を出しましたが、これが驚くほど難しかった。テキストを開いた瞬間に眠くなる。
「ああ、僕は難関校なんて行く人間じゃないんだな」
そう悟り、また野山を駆け回る日々に逆戻りしました。
転機は、小6の春に訪れました。父が突拍子もないことを言い出したのです。
「11月から、また塾に行こう。受験までの最後の2ヶ月で、追い上げればいい」
常識的に考えれば、狂気の沙汰です。
福岡の名門・久留米大学附設中学校。九州の英才たちが何年もかけて準備する学校に、たった2ヶ月の通塾で挑むというのですから。
でも、父は本気でした。そして不思議と、僕も「最後の2ヶ月が無駄にならないように、準備だけはしておくか」と妙に冷静に受け入れたのです。
ここから僕がとった行動が、後の「東大合格」への伏線になりました。
難しいZ会のテキストを投げ出し、僕は『マンガ 日本の歴史』を読み耽りました。そして、姉が持っていた中学生用の「一番わかりやすい参考書」をパラパラと眺めたのです。
すると、どうでしょう。あんなに難解だったZ会の問題が、驚くほどスルスルと頭に入ってくるようになったのです。
マンガや簡単な参考書で「歴史の大まかな流れ(構造)」を頭に入れてから、細かい知識(Z会の内容)を埋め込んでいく。
「基本の構造さえわかれば、難しいことは後からついてくる」
それに気づいた瞬間、勉強は苦行ではなく、パズルのような快感に変わりました。
算数も同じです。『塾技100』という一冊のテクニック本だけを、ボロボロになるまで読み込みました。トイレにまで持ち込む愛読書になっていました。
結果、僕は「最後の2ヶ月」で猛烈な追い上げを見せ、受験直前にインフルエンザにかかるというハプニングに見舞われながらも、久留米大学附設中学に合格しました。
「なんとなく」始めた勉強が、「構造を理解する」という武器を手に入れたことで、結果に結びついた最初の成功体験でした。
第2章:静寂の中の覚醒
中学に進学してからも、僕は相変わらずのんびりしていました。
中学1年生から入ったバレーボール部で、毎日放課後は仲間たちと汗を流す日々。
週末は星野村に戻り、家の手伝い。お茶の剪定、木を切る、シイタケの原木を運ぶ、水源の掃除。
そして時々、小学生の頃のように川へ。
冷たい水に足を浸しながら、何も考えずにぼんやりする時間。心が浄化され、原点に戻っていくような感覚。あの川が、いつも僕を「ゼロ地点」に戻してくれました。
しかし、中学2年生の12月、ある出来事が僕の心を揺さぶります。
附設には伝統的な行事があります。毎年、終業式に中学1年生から高校3年生までの全校生徒が体育館に一堂に会し、高校3年生が受験への意気込みを語る場です。
その年、壇上に立った先輩たちは、まるで別世界の住人のように見えました。
「この模試で全国○位でした」
「数学オリンピックでメダルを獲りました」
「東大理Ⅲを目指します」
圧倒的な実績と自信に満ちた言葉。僕は席に座りながら、じわじわと不安が込み上げてくるのを感じました。
「僕は高3で、こんな風になれるのか?」
周りにいるのは、小学生の頃から英才教育を受けてきたような秀才ばかり。自分はただの星野村の泥んこ少年。バレーと家の手伝いをしながら、のんびり勉強している。このままで、本当に大丈夫なのか?
そんな不安を抱えながら迎えた中学3年生の夏。
附設では、高校受験がない代わりに「卒業論文」を書くことになっています。僕は迷わず、星野村をテーマに選びました。
夏休みのすべてをその論文に捧げました。村の人たちへのインタビュー、大量の資料を読み込む日々。
この時、父がとても協力してくれたのです。自分の時間を削って、僕のために動いてくれました。
僕一人だったら絶対にインタビューできないような人たちにも、父の人脈のおかげで話を聞くことができました。ほとんどの人と、父は知り合いだったのです。
「父って、こんなにも村に深く根を張っていたんだ」
この時初めて、父の存在の大きさを実感しました。
コロナ禍と、ホワイトボードの魔法
そして、高校1年生。世界が一変します。新型コロナウイルスの流行です。
学校が休みになり、星野村の自宅に閉じこもる日々。
この頃、父がリサイクルショップでホワイトボードを買ってきてくれました。僕はこれを使って、目の前に生徒がいるつもりで声に出して授業をする「芝居のような勉強法」を始めました。
この方法には、3つの強みがあります。
- 「メタ認知」が働くこと。 参考書を読んで「わかった気になる」のは簡単です。でも、いざ説明しようとして口ごもれば、そこが理解できていない箇所だと突きつけられます。曖昧な点を明確にし、そこだけを潰していく。これが最短ルートでした。
- 「先生を演じる」楽しさ。 ホワイトボードの前に立ち、身振り手振りを交えて教える。この身体の動きを伴う思考が、脳を強く活性化させます。退屈な勉強が、能動的なパフォーマンスに変わったのです。
- 「全体を俯瞰する」ことによるひらめき。 大きな文字を書き、一歩引いて全体を見渡すことで、ノートという狭い空間では得られないような全体構造の把握や新しい発想が可能になりました。
「戦略」としての東大
社会が混乱に陥るニュースを見ながら、僕は自分がいる「安全地帯」の静けさに、ある種の恐ろしさを感じていました。
父が整えてくれた環境、学ぶ時間、豊かな自然。
「この特権を、ただ消費して一生を終えるのか?」
その問いに対する答えは「No」でした。
しかし同時に気づいたのです。この理不尽な現実を変えるには、単なる「善意」や「優しさ」だけでは無力だと。
社会という巨大なシステムを動かすには、その構造を見抜く「圧倒的な知性」と、発言力を裏付ける「社会的信用」という武器が必要です。
今の自分には何もない。だからこそ、その武器を最短ルートで手に入れる場所が必要でした。
日本で最も知が集まり、ここから世の中を動かしていく人間たちが集う場所。
「東大に行こう」
それは憧れという甘いものではなく、将来、僕が社会と対峙するために必要な「スペック」と「環境」を取りに行くという戦略的な決断でした。
東大合格はゴールではなく、あくまで「手段」に過ぎない。
そう腹が決まった瞬間、僕の中で勉強の意味が「義務」から「戦略」へと切り替わったのです。
「論理」への目覚め
この時期、僕の勉強法はさらに進化を遂げました。そのきっかけは、YouTubeで数学の「同値性」についての講義を見たことでした。
実は、僕は中学の頃、数学が苦手でした。なんというか、全部暗記しないといけないイメージがあったんです。二次関数、三角関数、微分積分……それぞれの分野がバラバラの島のように存在し、僕はただ、それぞれの島でしか通じない「式変形のパターン」を必死に覚えていただけでした。
だから、見たことのない問題が出ると手も足も出ませんでした。
しかし、「同値性」の概念がその霧を晴らしてくれたのです。
式変形とは、単に数字をいじる作業ではありません。「情報の量(真偽)」を保存したまま、形だけを変えていく高純度な論理操作だったのです。
例えば、A=B という式を不用意に二乗して A²=B² にしてはいけません。それでは「情報」が変化し、余計な解が混入してしまう。
「ああ、数学って、計算じゃなくて論理なんだ」
この瞬間、僕の視界はクリアになりました。
バラバラだった数学の全分野が、「論理」という一本の線で繋がったのです。
式変形が、ただの記号の羅列ではなく、意味を持った言葉として語りかけてくる。
「次はどう変形すれば情報が壊れないか?」
その指針さえあれば、未知の問題であっても、迷うことなく正解への道を切り拓けるようになったのです。
世界は論理で記述できる。この感覚を掴んでからは、成績が伸び悩むことはあっても、不安に押しつぶされることはありませんでした。
バレーボール部では、ほぼ同じメンバーで6年間を過ごしました。喧嘩もありました。でも、みんなで少しずつ成長していく過程は、かけがえのない経験でした。
週末は相変わらず星野村に戻り、家の手伝い。そして時々、川へ。
独学の中で磨き上げた「構造」と「論理」。星野村で培った「原点回帰する力」。
他の誰でもない、自分自身で見つけたこれらの武器を携え、僕はついに東京大学の門をくぐりました。
第3章:父の背中、その偉大さと脆さ
ここで、僕の人生の最大の師であり、最大の壁でもある父、「山口浩久」の話をさせてください。
今回の記事の、本当の主役は父かもしれません。
父は、星野村で生まれました。
幼くして父親を亡くし、母親を支えながら苦学の末に慶應義塾大学へ進学。新聞配達をしながら卒業し、大手証券会社で金融マンとして最前線を走っていました。
しかし、姉が生まれる頃にそのキャリアをすべて捨て、実家の星野村に戻ってきたのです。
それ以来、父の背中はいつも泥だらけでした。
村議会議員になったり、花公園の運営をしたり、持っていた茶畑の栽培をしたり。
幼い頃の僕にとって、父は「いつも何か作業をしている人」でした。
そんな父には、僕に対して絶対に譲らない「鉄の掟」がありました。
それは、「茶摘みの手伝い」です。
小学生の頃から、新茶の季節になれば有無を言わさず茶畑に連れて行かれました。蒸し暑い中、ひたすら茶葉を摘む。
驚くべきことに、これは僕が高校3年生、つまり受験生の年まで続いたのです。
周りのライバルたちがエアコンの効いた自習室でペンを走らせている時に、僕は星野村の茶畑で汗を流している。さすがに焦りました。
「親父、俺は受験生なんだけど。模試の判定も気になるし……」
そう抗議する僕に、父は平然と言い放ちました。
「勉強だけできても、意味がない」
当時はその言葉の意味が全く分かりませんでした。「いや、今は勉強こそが意味あるだろ!」と心の中で毒づいていました。
でも、今なら少しだけ分かります。頭でっかちになるな。土の感触、労働の痛み、自然の理不尽さ。そういう「身体感覚」を持たない人間が、いくら論理を振りかざしても人の心は動かせない。
父は、それを身体に刻み込ませようとしていたのかもしれません。
そんなスパルタな父ですが、僕が釣りにハマった時期がありました。父も仕事で忙しく、決して裕福な家計ではなかったはずです。それでも、嫌な顔ひとつせず週末になれば一緒に釣りに行ってくれ、僕のために新しい釣り道具まで買ってくれました。
茶畑での理ক্রান্তなまでの厳しさと、釣り場での不器用な優しさ。
言葉数は少なくても、その行動の端々に、父なりの深い愛があったのだと、大人になった今、痛いほど感じます。
埋もれた才能
もう一つの顔として、父は教育者でもあります。
星の塾という地域の塾を超格安で10年以上運営していました。それから、大手個別指導塾の講師として、5年以上も教えています。情熱もあり、生徒・保護者からの信頼も厚い。
けれど、息子である僕から見ても、父は「商売」が絶望的に下手でした。
というのは、自分をあまりにも安売りしすぎているのです。
15年のキャリアがあり、これだけの指導力がある父が、その経験と情熱に見合った評価を受けているとは到底思えませんでした。
村のためにボランティアで汗を流し、塾では組織の一講師として淡々と働く。
「もったいない」
悔しさがこみ上げました。
父は、人間としても教育者としても一流です。
あの星野村の自然の中で、泥にまみれて働き、自然の厳しさと優しさを知っている。都会の競争社会を知り尽くした上で、それでも星野村に戻ってきた。
そんな先生、都会のどこを探してもいません。
父には、大手塾の看板なんていらないはずだ。
父に教わりたい生徒は、世界中にもっとたくさんいるはずだ。
そう考えたとき、僕の中で一つの視点が生まれました。
これは、親孝行という優しい感情だけではない。父という「埋蔵資源」が、適切に値付けされずに埋もれている現状は、一つの「損失」なのではないか。
ビジネスとしてうまくいっていないのなら、僕がその仕組みを作ればいい。
「父が報われないなら、誰が報われるんだ」
そんな義憤にも似た感情と、冷静な戦略的視点。その両方が、僕を突き動かしました。
第4章:僕らが星野村で「塾」をやる理由
僕は現在、東大生として東京にいますが、心は常に星野村にあります。
そして今、父と共に「星野村フォレストアカデミー」という新しい教育事業を立ち上げました。
なぜ、東大生の僕が、わざわざ田舎で塾をやるのか。
将来、エリート街道を歩むための「実績作り」? いえ、違います。
僕が学生でいられる時間は限られています。だからこそ、「今」やらなければならないのです。
父という稀有な才能が正当に評価され、持続可能な形で回っていく「仕組み」を残したい。それが、今まで自由にさせてくれた父への、僕なりの最大の恩返しだと思っています。
星野村フォレストアカデミーでやりたいことは、単なる受験勉強の指導ではありません。
父が持っている「自然体験(泥臭さ)」と、僕が持っている「論理的思考(アカデミックさ)」。
この2つを掛け合わせることです。
今の大学入試、特に総合型選抜(旧AO入試)で求められているのは、偏差値の高さだけではありません。
- 「問いを立てる力」
- 「仮説を検証する力」
- 「他人を巻き込む力」
これらは、机の上だけでは身につきません。
星野村の自然の中で、実際に土に触れ、作物を育て、あるいは村の課題解決に取り組む。
答えのない問いに向き合い、泥にまみれて試行錯誤する。
そのプロセスを、僕たちが論理的にサポートし、言語化させる。
気づいたんです。都会の受験生は、整えられた教室で、答えのある問題しか解いていない。でも、僕には星野村という「カオス」がありました。予測不能な自然、正解のない地域の課題。それらと向き合ってきた経験が、今の僕の思考を作っている。
これこそが、AIが台頭するこれからの時代に、本当に必要な「生きる力」ではないでしょうか。
都会の子どもたちが経験できない「圧倒的な原体験」が、ここにはあります。
それを武器に、大学受験という壁すらも、軽やかに超えていってほしい。
父の「泥臭い原体験」と、僕の「東大的論理思考」。
この両輪が揃って初めて、ここにしかない教育が生まれる。父と僕なら、それができると確信しています。
エピローグ:問いを立て、泥にまみれろ
傷だらけの膝小僧で川に飛び込んでいた星野村の少年が、今、東京大学で学んでいます。
そして今また、故郷に戻って新しい挑戦を始めています。
僕にあるのは、特別な才能ではありません。
小学生の頃に『マンガ 日本の歴史』で掴んだ「構造を見抜く目」。
高校生の頃にYouTubeで出会った「論理で世界を記述する視点」。
そして、父が身体に刻み込んでくれた「泥臭くやる覚悟」。
ただそれだけです。でも、気づいたんです。
この3つを掛け合わせれば、誰でも「偏差値の向こう側」に行けるということに。
都会のエリート教育が見落としている「圧倒的な原体験」が、星野村にはあります。
父の15年以上の教育経験と、村に張り巡らされた人脈。
そして僕の、東大で磨いた論理的思考。
これらを組み合わせた教育は、ここにしかありません。
もし、このブログを読んでくださっているあなたが、
- 「子どもの教育に迷っている」
- 「偏差値だけの競争に疑問を感じている」
- あるいは、「なんだかこの不器用な親子を応援してやりたい」
そう思ってくださったなら、ぜひ一度、星野村フォレストアカデミーに声をかけてください。
父の人間臭さと、僕の論理。かなり面白い化学反応をお見せできるはずです。
星野村で、待っています。
(執筆者:山口裕祐)